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結婚へのチャンス
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新しい時代の花嫁修業
村山リウさんの意見
今までの花嫁修業の欠点は、技術を教えることに熱心で、人間研究がちっともされていなかったところにあると思います。生花にしろ、茶の湯にしろ、また料理にしろ、ある流儀をいかにうまくもほうするかということが重視されていました。ちくちくと、人のいやがるところをつついて先生が教える。そのものの心というものにはふれません。今後は、この欠点に気づいて、心へ目を向けてとり組めば、どんなものもよい修業になるはずです。たとえば、花は生活の一部です。この生活と花とのつながりがわかるように説明してくれるのが、ほんとうの師匠というものではないでしようか。
技術はやればできるもの。技術の陰にある心はなかなかわかりにくいものです。「花のない生活はさびしいな。それじゃ生けてみようか。どの花を生けようか」そこから始まって、くふうが生まれます。何か材料を見つけて、これは利用できないかな、と考えるような勉強のしかたをしてください。お金にしろ、知識にしろ、すべてうまく積み上げたら、その使い方をじょうずにするのが大事です。そこに問題があると思います。合理的というだけでもいけない。これではガイ骨にしかなりませんから。色づけ、肉づけのしかたをうまくくふうしていくことが、大事な知恵です。花嫁修業も、この知恵を身につけるとこに、やりがいがあるというものです。
中野ツヤさんの意見
中野ツヤさん(東京都民生局婦人部長)は、主婦が家庭の中にだけとじこもらず、何らかの形で社会とのつながりをもつことを、提唱しています。婦人が職業をもつだけでなく、たとえば社会事業のようなことを手伝うのも、社会とのつながりをもつことになります。社会とのつながりをもつことで、主婦も自分独自の仕事を家事のほかにもち、自分を成長させる必要があるというのです。こういうことは、主婦になってから始めようとしても、どうやってよいかわからず、結局できずに終わってしまいます。もし娘時代に、少しでも社会事業などに関心をもち、奉仕のグループに近づいてでもいれば、家庭に入り、時間や気持の余裕ができたとき、再び始めることができます。お茶やお花のようなけいこごとだけに花嫁修業の場を見出さず、少し目を転じてみるのも必要でしょう。こういう仕事の中でもまれることは、決してむだではなく、精神的にも技術的にも、何かを必ず得るものです。
亀井勝一郎氏の\"現代夫婦論\"から
亀井勝一郎氏は、\"現代夫婦論\"(主婦の友社刊)の中で、\"心の支えを求めて\"という一章に、\"結婚と机\"ということを書いています。読まれた方もあるかと思いますが、ここに引--用してみましょう。『結婚と机。ーこの組みあわせは、ちょっとふしぎに思われるかもしれない。結婚のとき、誰でもまず考えるのは、着物とかタンスとか台所用品等である。机などは、その次くらいにしか考えない。ところが、これからの夫婦生活では、この机なるものが、大切な役割を果すようになると思う。実は最近私の友人の娘が結婚した。友人は高校の先生である。むろんぜいたくな嫁入道具などそろえることは出来なかったが、机だけは、とくに頑丈で便利で立派なものをわざわざつくらせて、自分の娘にもたせてやったという。そのことについて、友人はあとで、私に次のように語った。「女は家庭に入ると、はじめのあいだは本など読もうと心がけるが、やがて様々の雑事に追われて、しまいにはゆっくり坐る場所さえなくなるものだ。自分が立派な机を送ったのは、何も朝から晩まで勉強しなさいという意味でなく、一日に一時間でもいい、あるいは一週に一度でもいい。とにかく机に向って、そのときだけは妻という位置からも一応はなれて、ひとりの人間としての生き方を考えること。あるいは好きな本の一ページでも、ゆっくりした気持で読むこと。つまり人間としての神聖な時間を思い出させようという意味で、机をもたせてやったのだ」私は友人のこの言葉をきいて、大へん感心した。嫁入道具として机ぐらいは誰でももってゆくだろうし、あとで買うことだって出来る。しかし、娘のためにこのような思いやりをこめて机を考える両親は少いのではなかろうか。(中略)
結婚生活に入るということは、人生の小学校に入るようなものだと考えていいのではなかろうか。とくに女性にとっては、人生の大きな転機ともなる。そういうとき、改めて机をもち、それを人生勉強の神聖な場とすることは、大切な心がまえではなかろうか。机なんかなくてもいいと言えるが、人間の心は、外的の「もの」によって左右されやすい。いい机があると、ついその前に坐ってみたくなるものだ。坐ってみると、心がおちついて、読んだり考えたりしたくなるものだ。私のもうひとつ感心したのは、友人の娘さんの旦那さんになった青年の態度であった。これは、見合して、しばらく交際してからの結婚であったが、自分の新しい妻が、机の前に坐っているのを大へん好ましく、そのときが一番可愛らしいと思うようになったという話である。妻の一番精神的な顔が、そこにあらわれるからであろう。この青年は、学校時代あまり読書などせず、卒業後も会社員として働くだけであったが、結婚してから急に自分も机を買ってきた。そして自分も時間をみつけて本を読むようになった。新婚夫婦が机をならべて、本を読む風景は、なかなかほほえましいが、むろん学生ではないから、一日中そうしているのではない。夜のひととき、或は休日のひととき、たとい本は読まなくても、こうして語らっていると、何となく楽しいという話であった。つまり「妻の座」の新しいかたちが、こうして次第に出来あがりつつあるということだ。「妻の座」と言えば、今までは茶の間か台所にきまっていた。それも大切だが、その上に机のあるところが「妻の正座」となり、読書とか日記をつけているときは、旦那さんの方もおとなしくしているようになったとき、ごく自然なかたちでの男女同権が成り立つのではなかろうか。(中略)
読書は結構だが、そうかと言って妙なインテリ・マダムになられては困る。本を読んだことを鼻にかけるような、中年の女性ほどやりきれないものはない。(後略\")』
亀井氏は、これを花嫁修業としていったのではありません。しかし、これからの妻のあり方、夫婦のあり方の一面についてであれば、当然修業時代に、心にとめて読んでおきたいことばだと思います。机に象徴されるもの、机に向かおうという気持、これを身につけることも、今の時代の花嫁修業に、要求されるのではないでしょうか。このことは、秋山さんのことば、村山さんのことば、中野さんのことばの根本にもあるものだと思います。
机に向かって、あるひとときを過ごそうとする妻は、同じ花を生けてみても、そこにもっと人を感じさせる何かを表現できるのではないでしょうか。料理にも、家族を喜ばせる\"心\"をいっしょに煮込めると思うのです
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